こんにちは。ぷぷるです。
小・中学生の時の体験から、高校生のとき私は人を信じられずにいました。
内側には常に悶々としたものを抱えて、未来の事なんてどうでも良くて。
どうせ世間は自分の存在すら必要ないと思っているんだろうと、全てを勝手にマイナスに捉えては反発し、周囲に迷惑ばかりかけていました。
今から20年以上前の話です。
当時そんなどうしようもない私に正面から向き合い、信じ続けて下さったのが担任の先生でした。
先生の存在のおかげで闇から少しずつ抜け出すことができ、
その先の人生も大きく変わりました。
どんな小・中学生だったのか↓
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目次
学校について
まずは私が通っていた高校について、一般的な学校とは少々異なるところだったので最初にご説明しておきます。
一言で言うと
『面接さえ行けば誰でも入れる高校』でした。
そんな高校あるんかーい!と思うかも知れませんが…あったんですね。
卒業後しばらく経ってから先生に、
あの学校はどういういきさつで出来たのか聞いてみて知ったのですが、
第2次ベビーブーム世代(1970年代はじめ頃。団塊ジュニア世代とも言う)に生まれた人たちが高校受検をする頃、
子供の数が多過ぎて入れる高校がどこにもない子たちがたくさんいたそうです。
特に中学生の頃になんらかの事情(イジメ、家庭環境、素行不良など)で不登校になっていた子供たちが、高校に行きたくてもどこも受け入れてくれない。
そんな状況を目の当たりにした校長先生(最初は大人を対象とした洋裁教室の先生)が、
「お勉強があまり得意じゃない子たちでも、洋裁ができるようになれば将来何かの役に立つはず。受け入れ先を作ってあげたい」と考え、
高卒の資格も取れる洋裁を中心とした専門学校を設立したのだとか。
(子供の数がピークの時は同じ地域にいくつもこうした学校があったそうです)
そんな訳で中学にあまり行っていなかった私も、この学校へ入学しました。
3階建ての小さなアパートのような建物で、1階は校長先生夫婦の住居。
更に同じ敷地内に校長先生の親族の自宅が建っているというちょっと変わった環境でした。
私自身は団塊ジュニアよりも少し下の世代なので、入学当時は1学年20〜30人ほどでした。
学校で学んだこと
高卒の資格も取れる学校ということで、国語・数学・歴史など一般的な高校と同じ授業もありましたが、
恥ずかしながら3年間これらの教科の授業をまともに受けた記憶がありません。
当時の私にはそれなりの理由があっての行動とはいえ、
今から思えば授業料を払い、弁当を作り続けてくれた親に申し訳ない気持ちと感謝でいっぱいです。
服って自分で作れるんだ
洋裁の授業ではミシンの使い方を手取り足取り教えてもらいました。
エプロン、ワンピース、ボタンダウンのシャツ、スラックス、スカート、パーカーなどなど……
真っ白の大きな紙に自分のサイズで型紙を書くところからはじめ、
生地を裁断し、ロックミシンをかけたらパーツをミシンで縫い合わせていく。
一枚の布きれが徐々に形になっていくっていう作業が楽しくて楽しくて。
足踏みスイッチ付きのミシン最速の速さでダーッと縫う事までできるようになり、
卒業間際にはセットアップのスーツ(肩パット、裏地付き)を作り上げました。
学校の授業以外でも自分でユザワヤなどに行って、生地や材料を探し様々な服を家で作るようにもなりました。
デザインして、生地を探して、型紙を書いて、縫っていく。
途中で作り方がわからなくなると洋裁の先生に相談。
「数学とかもこれだけ夢中になってくれたら数学の先生も喜ぶだろうけど」
って冗談ぽく言いながら
「この生地かわいいね」「よくこんなデザイン思い付くね」と、作り方のアドバイスをしながらたくさん褒めてくれました。
ちなみに。
この洋裁の先生は授業の時間だけ学校に来ていたというのもあって、当時の私に対しては
「頭は金髪だったけどさ、ミシン上手だったのよね。一生懸命やってたってイメージしかない」
そうです。
手縫いだってなんでも作れる
ミシン(洋裁)の他にも、手縫い(和裁)でも様々なものを作りました。
糸の種類やいろいろな縫い方からはじまり
パッチワーク、ぬいぐるみ、クロスステッチ、そして浴衣。
浴衣は反物の状態から裁断し、すべて手縫いで仕上げました。
「今ではミシンで縫うのが普通だけど、一つの経験だから手縫いで作りましょう」
と先生に言われ、めんどくさがりな私がなぜそれに納得したのかナゾですが…
(家にも学校にもミシンがあったので、やろうと思えばミシンで縫っちゃうこともできたけどやらなかった)
そして私を救ってくれたのが和裁の先生(担任でもある)でした。
洋裁・和裁を通じてゼロから自分の思い描いた物を作り上げることの楽しさを教えて頂きました。
世の中には色んな人がいる
上にも書いたようにちょっと特殊な高校だったので、生徒はそれぞれに事情がある子がほとんどでした。
仲良くなってくると少しずつお互いに自分の過去や、家庭環境などを話す事もありました。
苦しんでいたのは自分だけじゃなかったんだ。
みんな何か希望を持ってこの学校に入学して来たんだなぁ。
みたいなことを考えて、いっしょに泣いたり怒ったり笑ったり。
だけど最終的に
ま、どうでもいいけど。
もうじき地球滅亡するし…
とにかく楽しいことだけしてりゃいいやー
↑ってとこに落ち着いてました(笑)
時は1990年代後半でしたので。ノストラダムスさんの予言の日が近かったわけです。
先生はもう一人の母
当時60才近かった担任(和裁)の先生。
当時のことで思い出すのは、
口ゲンカをしているところ
両肩に強く手をおいて何か説得されてるところ
大声で騒いだり
悔しくて泣いたり…
そして、私の手を強く握って
「あなたを信じてるんだから」
って何度も言ってくれたこと。
たぶん最初はその言葉も無視してたか、うるせーとか言って手を払ってたと思うけど(ごめんよ先生)
それでも何度でも掴み直して目を真っすぐ見て言ってくれた。
「あなたは大丈夫だって信じてる」
は?何を根拠に?
私のこと何も知らないクセに。
最初はそんな感じだった。
でもなんでだろう。少しずつ心を開いていくようになっていったんだなぁ。
自分の過去や家族のことも話すようになって、
「辛かったんだね。大変だったんだね」
って背中をさすってくれたり、手を握ってくれたり。
「過去は変えられないけどね、これから先のことはいくらだって変われるんだから。大丈夫よ」
って。
時々学校帰りに本当はいけないんだけど、ちょっと話そう。
とか言って他の友達も一緒にカフェ連れてってもらったりもしてた。
孫が生まれたのよって言って家に誘ってくれたこともあったっけ。
当時の私は、見た目で判断されるということに対し極端に反発していたので、
見た目のことを何も言わず内面を見ようと気持ちに寄り添ってくれて、大人だから教師だからと偉ぶる感じもなく、
私たちには未来があると信じてくれている先生の存在は本当に大きかったですね。
実の母とやりたかったこと、言って欲しかった言葉を先生からたくさんもらいました。
先生からしてみたら他人の子だからこそ言えた言葉や、できた事もあったと思います。
自身の子育てで後悔していたことを私とやり合う……
……いや向き合う事で、取り戻そうとしていた部分もあったのかも知れません。
今では実の両親に対してもちろん感謝の気持ちはありますが、先生がもう一人の母であることに間違いないです。
あんなに人との関わり(特に大人)を拒絶していた私に正面からぶつかって、寄り添い信じてくれた人は他にいません。
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先生からもらった大切な言葉
卒業間際に私がやっと素直に
「先生、ありがとうね」と照れながら伝えた時です。
「そう感じてくれたなら、今度はそれを世の中の誰かに返していきなさいね。
私に返そうとは考えなくていいんだから」
そして
「あなたは私のもう一人の娘みたいなもんなんだから」
と頭をぐしゃぐしゃされて抱きしめてくれました。
(やめろー!って払いのけたけど、内心すごく嬉しくてニヤニヤしてたのを覚えていますw)
今では80歳を間近に迎えるというのに相変わらず元気いっぱい、自分の好きな事をして毎日楽しく過ごしているようです。
私もそんな風に歳を重ねていきたい。
さいごに
私の場合は高校の先生でしたが、あなたにもいるはずです。
あなたを信じてくれてる人が。
それは家族かも知れない。
友達かも知れない。
職場の上司や部下かも知れない。
先輩、後輩かも知れない。
ご近所さんかも知れない。
血の繋がりがあるかどうかだけでなく、ただ真っ直ぐにあなたの事を見て信じてくれてる人が。
私はこの出会いと経験があったからこそ(地球滅亡しなかったし)
やりたいと思ったらとりあえずやってみる。
ダメでも他に道はある。
楽しいことや好きなことは財産になる。
だって先生はそう信じてくれてる。
そう考えながら生きてきました。
と同時に、見返りを求めず人を信じて行動することの難しさや裏切られた時の悲しみも痛感し、すべてが今の私の糧になっています。
1人の先生との出会いで私は、闇に落ち続けることなく将来の夢などを思い描くことができるようになりました。
先生との日々の壮絶な戦い?の様子はまた別の機会にご紹介しますね(今となっては笑い話ですが)
こんな私でも自力で英語の勉強をスタートして、20代の時に1人でロンドンに行けちゃいました。
人は変われます。
その話はこちらでどうぞ↓
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ぷぷる
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